(第0話)『時代と数値でみる美濃焼の今』‐美濃焼について思うこと‐

 本日は令和3年7月28日水曜日。一週間前に1年で最も暑いころを表す二十四節気の大暑がすぎ夏本番の暑さの中、作山窯にて第4回座談会を開催致しました。

 第四回座談会のテーマは『美濃焼について思うこと』

 三窯それぞれが 今の美濃焼に感じる事、これらかの美濃焼に願う事をざっくばらんにお話し頂く予定ですが、そもそもこの參窯(さんかま)プロジェクトの名前を考える際に、産地名である「美濃」という言葉を入れる案もありましたが、美濃焼の名前に頼らず個々の器づくりやブランド構築を大切にしてきたという想いもあり、敢えて『美濃』という文字を入れなかったこの三つの窯元であるからこそ、改めて美濃焼やその地域についてどう考えられているのかとても興味津々な内容となりました。


―(第0話)時代と数値からみる美濃焼の今(語り手:深山・柴田(司会))

司会:初めにご覧頂く皆さまために、美濃焼の時代や数値面での概要を簡単にご紹介します。

【地域と規模】

 美濃焼を生み出す地域は、岐阜県東部にある多治見市、土岐市、瑞浪市の三市。現在でも地域内に12の工業組合*1があり、その組合参加の窯元だけでも2020年時点で328社あり、その関連産業は問屋、土屋、釉薬屋、型屋、転写屋、絵付屋、箱屋とさらに広がり、そうした環境からなるこの地域での食器の生産量は日本全体の50%近くを担っている国内最大の陶磁器産業地です。

『三窯のそれぞれも別の地区の別の組合に所属する。』

【時代(平安~江戸)】

 時代としては、7世紀ごろには【須恵器(すえき)】と呼ばれる轆轤で成形し穴窯で1100度以上の高温焼成で焼きあがる無釉の器の生産が盛んにおこなわれた。時代が平安に移ると【灰釉陶器(かいゆうとうき)】と言う名の釉薬を施した強度や耐水性が向上された器が誕生し、鎌倉時代からは庶民にも使われる器となりました。その傾向は戦国から江戸時代にかけて加速し、熱効率の良い地上式の大窯*2が生み出され、その後の登り窯への発展もあり供給量とコスト力が向上し庶民の使う器として広く全国へ流通し現在の美濃焼に通じる存在となりました。

『輸出最盛期の昭和30~40年代の町と工場の風景。いたるところに煙突が登り、その工場で作られた器が世界中に輸出される。』

【時代(明治~現在)】

 近代に入り明治時代からは量産の礎となった分業制度*3も確立され輸出用の洋食器製造も担い最盛期の昭和後期には1000社弱の窯元数、15000人以上の従業員が食器製造に携わっていました。輸出用の美濃焼はその多くが最も近い港である名古屋港から世界へ出荷されていましたが、当時の名古屋港で輸出業務をされていた方のお話では、名古屋港から出荷されるものの内、美濃焼が占める割合は非常に多かったこともあって海外の港湾関係者は名古屋港を通称として『陶器屋』と呼んでいたというお話も伺った事があります。それほど隆盛だった美濃焼ですが、その後、1985年のプラザ合意に端を欲する日本円の変動相場制をきっかけとした輸出低迷や1995年ころからのバブル崩壊に伴う国内市場の低迷の影響は大きく廃窯する窯元も増え生産量は急速に減少しました。

 近年は後継者問題などで窯元数の減少は続きますが、落ち着きは取り戻すと共にウェブサイトやSNSの発達により各窯元の個性を発信し易い環境となった為、新たな取り組みが芽生え始めています。

『窯元数の推移』資料提供:岐阜県陶磁器工業協同組合連合会

 こうした歴史的、環境的な背景をもとに多様性のある美濃焼は産地・製品・歴史・技術などどんな切り口で語るかでその印象は変化するかと思います。【一つ数百万円する人間国宝のうつわから100円ショップの器まで生み出す幅の広さを持ち、日本国内の50%近くの食器を生み出す日本最大の陶磁器生産地】でありながら【特徴が無いのが特徴】という良い事なのか悪い事なのかわからない伝え方をされるこの美濃焼の本当の姿を、実際にこの地域でうつわを作る三窯の座談会を通して使い手の方々にお伝えできればと思います。

『座談会の内容は次回掲載分より始まります!』

 次回、第一話からはカネコ小兵 伊藤社長、作山窯 高井社長、深山 松崎社長の内容をご紹介します。2021年9月17日掲載)⇒第四回座談会「美濃焼について思うこと(第一話)」に続く・・・*9月24日掲載予定(毎週金曜掲載)


●脚注:*1.工業組合とは地域で分割された窯元の共同体。組合単位で見本市などを開催する。分布は多治見市に「滝呂」「市之倉」「高田」「笠原」、土岐市に「下石」「駄知」「肥田」「妻木」「土岐津」「泉」、瑞浪市に「瑞浪」「恵那」。かつては組合(地域)毎にものづくりの特徴があり、例えば「市之倉」では盃の生産に特化したり、「駄知」では丼の生産を得意としたりといった様相。この組合一つ一つが独立した産地と言っても過言ではない。この組合をまとめる組織として資料提供をいただいた岐阜県陶磁器工業協同組合連合会がある。 *2.代表的なものとして土岐市久尻にある国の史跡「元屋敷窯」がある。ここでは登り窯1基、大窯3基の跡が発見されており、登り窯は全長24メートルとその大きさから生産量を感じられる。現在は公園として整備され見学も可能。  *3、多面的な分業によりそれぞれが得意な工程に特化する事で効率的な運営が可能となった。【流通】における分業では「問屋」と「窯元」が明確に分かれ窯元は基本的に作るだけ、作ったら問屋が引取り梱包出荷する。【製造】においては、一つの製品の作業工程は当然工場内でも分業されるが特徴的なのは「外注作り屋」という成形に特化した業態も存在する。【製造全体】においては土を作る「土屋」、釉薬を調合する「釉薬屋」、製品を作るための型を制作する「型屋」、その型の原型を作る「原型師」、上絵用の転写を制作する「転写屋」、下絵用の銅版転写を制作する「銅版転写屋」、器に絵付けを行う「絵付け屋」、絵付けのための絵具を制作する「絵具屋」など存在し、それらから積みあがったものを「窯元」が焼き上げて器ができあがる。これだけ分業してもそれぞれが商売として成り立つだけの生産量が美濃焼にはあり、そして分業する事でそれぞれの作業の熟練度があがり、より深い研究も可能となる。


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